南シナ海の領土紛争パラセルとスプラトリーをめぐる複雑な問題を解く Tranh chấp lãnh thổ trên biển Đông- Giải đáp vấn đề phức tạp ở quần đảo Hoàng Sa và Trường Sa

9/1996

YAMANOUCHI Yasuhide

【東南アジアの火種】

 南シナ海には、ベトナムが中国や他の東南アジア諸国と領有権をめぐって争っているパラセル諸島やスプラトリー諸島がある。1991年にカンボジア問題が解決されて以降、東南アジアには目立った国際紛争がなくなったため、いまでは南シナ海の島々をめぐる領有権争いは、東南アジアにおける紛争の潜在的要素とみられている。

 パラセル諸島はベトナム名を「ホアンサ諸島」、中国名を「西沙諸島」という。スプラトリー諸島はベトナム名で「チュオンサ諸島」、中国名で「南沙諸島」とよばれる。パラセル諸島はベトナム・中国・台湾の3ヶ国が領有を主張しており、スプラトリー諸島はベトナム・中国・フィリピン・台湾・マレーシア・ブルネイの6ヶ国が領有を争っている。 

【印象づけに懸命】

 いまだ係争中であることから、スプラトリー諸島・パラセル諸島とも国際的にはベトナム領として認められていないが、ベトナムで売られている地図には、いずれの諸島にもベトナム領と明記されている。そして、実際には小島と岩礁の集まりで、地図上には描けないほど小さな島々を、ベトナムの略図上に巨大な島のように誇張して描き、その存在を国民に印象づけるための努力を常におこなっている。

 また逆に、これらの諸島が地図上に描くには小さすぎることを逆手にとって、過当にベトナム本土に近い位置に諸島名を書き記した地図もある。これによって、諸島の位置がベトナムに近いかのようにみせかけ、領有主張が正当であるかのような印象を与えようとしていわけである。

 

【なぜ岩と砂がほしくなったのか】

 パラセル諸島やスプラトリー諸島の圧倒的大部分を占める小島は、台風が来れば大波に呑まれてしまう場所であって、陸地部分の利用価値はほとんどなく、もともと人が定住できるような場所でもない。

 陸地部分に利用できるものがあるとすれば、パラセル諸島に堆積した海鳥の糞で、これを採集してグアノとよばれる窒素肥料にできることか、または灯台を設置することくらいであろう。歴史的にはむしろ、これらの小島や岩礁は、貿易船が座礁する可能性のある、南シナ海における航海上の難所であった。

 なぜこうした難物の獲得に、ベトナムをはじめとする各国が目の色を変えているかといえば、その背景に、(1)領海および排他的経済水域、(2)海洋・海底資源、(3)海域の戦略的意味の3つの要素があるからである。これらは20世紀はじめ以降、とりわけ20世紀後半になって、強く認識されるようになってきた要素である。

 (1)の領海および排他的経済水域は、1974年にはじまる第3次国連海洋法会議によって70年代後半に領海12カイリ(約22km)、排他的経済水域200カイリ(約370km)が国際規格化したことで注目されるようになった。これによって、陸地部分がわずかでも、その周囲の広大な海域にたいして、自国の主権を主張できるようになり、両諸島の価値が急騰したのである。

 (2)の海洋・海底資源の利用は、1960年代から70年代にかけて、この海域に石油資源が眠っている可能性が指摘されるようになったことをさしている。1982年に採択された国連海洋法条約によれば、陸地の周囲に大陸棚が広がっていることが確認されれば、そこでの資源開発にかんして、主権に準じた権利を主張することもできることになり、両諸島の獲得が大きな経済的利益につながる可能性が出てきたのである。

 (3)の海域の戦略的意味は、南シナ海のただ中にあるこれらの諸島を手に入れれば、インド洋と太平洋をつなぐ重要なシーレーンである南シナ海に支配的な影響力を及ぼせることをさしている。かつて南方への伸張を考えていた日本もこの点に着目していた。日本は早くも1895年に、南シナ海の北東の出入口にあたる台湾を領有したが、第二次大戦が近づいた1939年3月、日本は両諸島を支配下に入れた。 

 現在では世界の貿易船舶の4分の1がこの海域を通過しているとされる。日本は目下紛争の当事者ではないが、この海域は日本にとっても実はきわめて重要性が高い。中国がこれらの諸島にたいする領有政策を強引に進めているのは、こうした南シナ海の戦略的意味に着目しているからである

 

両諸島と関連6ヶ国

 

いずれの諸島も、実際にはこうした地図上に表すことなどできない極小の島々である

 

◆◇◆◇◆ パラセル諸島 ◆◇◆◇◆

 

 

【基本的には中越間の問題だが…】

 パラセル諸島はベトナム名を「ホアンサ諸島」、中国名を「西沙諸島」という。ベトナム語のホアンサは漢字語「黄沙」のベトナム読みであり、「黄色い砂浜」といった意味を含む。

 パラセル諸島の領有を主張しているのは中国・台湾・ベトナムの3ヶ国であるが、実質的には中国とベトナムの二国間問題であり、また実効支配という点では 1974年以降、中国がパラセル諸島を支配し続けているため、実質的には勝負がついている状態にあるといわざるをえない。

 このような意味でにおいて、今なお周辺諸国を巻き込んで係争が進行中のスプラトリー諸島に比べて、パラセル諸島の国際的な注目度は低い。またスプラトリー諸島に比べれば、パラセル諸島周辺での資源開発の可能性は低いとみられている

 

【電子偵察機が落ちたあたり】

 パラセル諸島はベトナムからみれば中部ダナン市の沖合400kmくらいの地点にある。中国の海南島からは南東に300kmくらい離れている。2001年4月、アメリカ海軍の電子偵察機EP-3が中国軍機に衝突されて海南島に緊急着陸するという事件が発生したが、この衝突の発生地はパラセル諸島の近くであった。

 パラセル諸島は基本的には中越の二国間問題だが、この海域が中国の前庭的な位置にあることから、電子偵察機事件のように大きな国際問題へ発展する可能性も秘めている

 

【最高海抜9メートル】

 パラセル諸島もスプラトリー諸島と同じく、小島や岩礁の集まりであるが、散在する海域はスプラトリー海域に比べれば小さい。こうした30余りの島々が約250km四方の海域に散らばっている。

 パラセル諸島中の主な島としては、パットル島(越名:ホアンサ島)があり、面積は150ha、海抜の最も高い地点は9mである。そのほかに長さ3700m、幅2800mのボアセ島(越名:フーラム島)や、面積150haのリンカーン島(越名:リンコン島)がある。

 パラセル諸島には、中国が複数の港を建設しており、軍を駐屯させて、一帯を実効支配している。一方ベトナムはパラセル諸島を「ホアンサ県」(県は日本の郡に相当)として、行政上ダナン市に所属させている。

 

【パラセル小史 (1) …近代以前】

 パラセル諸島は人間が長期にわたって定住するのが困難な極小の島々であり、帰属問題が発生する背景になっている。パラセル諸島のなかには大波が来ても呑み込まれない程度の島があるが、それでも、水・食糧の確保をはじめとして、長期居住が困難であることにかわりはなく、いずれの国も長期にわたって実効支配したことがないのである。

 パラセル諸島はかなり古くから中国の歴史資料に登場しており、中国はこれをもってパラセル諸島は中国が発見したものだと主張して、領有の正当化をはかっている。これらの島々に接触したことを示す古い記録が残っているかどうかという点では、ベトナムは中国に全くかなわない。

 

【パラセル小史 (2) 19世紀末~第二次大戦】

 パラセル諸島への中国の接触は19世紀末から活発化する。1909年に清朝は艦隊を派遣して、パラセル諸島のボアセ島に旗を立てている。また19世紀後半からベトナムを支配していたフランスも、1899年にパラセル諸島のなかのパットル島に灯台を建設しようとしたが、これは資金不足のために実現しなかった。

 20世紀はじめから1939年までは、フランスがパラセル領有の既成事実化をはかった時期であった。逆に、この時期の中国は国内情勢が不安定で、パラセル諸島に関心を払う余裕は小さかった

 1938にフランスはパラセル諸島にフランスの主権が及んでいることを示す石柱を建てたうえに、灯台1カ所と気象観測所2カ所を設置し、駐屯部隊を置いて、領有の既成事実化に本腰を入れた。

 しかし、その翌年の1939年には、日本がシーレーン確保の観点からパラセル諸島とスプラトリー諸島を占領した。フランスはこれに抗議したが、両諸島にたいする日本の支配は第二次大戦末まで継続した。もともと南シナ海は日本と東南アジアを結ぶ重要連絡線であり、1941年末にはじまる日本軍の南方作戦には、南シナ海の確保は必須であった。

 

【パラセル小史 (3) …中仏の復帰】

 第二次大戦後、日本がパラセル諸島から撤退すると、ベトナムの再植民地化をこころみていたフランスは、1946年5月、パラセル諸島に軍艦を送り、1週間滞在させて、日本軍撤退後の現地状況を調査させている。

 

 これにたいして中華民国も、1946年6月に日本軍から支配を引き継ぐ名目でパラセル諸島とスプラトリー諸島に軍艦を派遣し、さらに1947年1月にパラセル諸島のなかの大きな島(ウッディ島)に軍を送って、これを占領した

 第二次大戦後10年間は、日本軍撤退のあと真空状態が生じたパラセル諸島にたいして、フランスと中華民国が支配を試みた時期であった。

 

【パラセル小史 () …自然消滅した中仏支配】

 しかし中華民国の国民党は、1949年に中国共産党との内戦に敗れて台湾へ退き、翌1950年に中華民国の部隊はパラセル諸島から撤退する。

 また、1954年のジュネーブ協定でインドシナ戦争が終結すると、フランスもまたパラセル諸島を含むインドシナ地域から全面的に撤退してゆく。

 この時期は、ベトナムでは植民地支配の再構築をめざす勢力(フランス)と脱植民地をめざす勢力(ベトナム民主共和国)が衝突し、中国では自由主義勢力(中華民国)共産主義勢力(中国共産党)が衝突するという混乱の時期であり、それぞれ後者が前者にたいして優勢を占めるという結果に終わった時期である

 第二次大戦後10年間、パラセル諸島にたいして前二者(フランスと中華民国)が部分的にこころみた実効支配は、それら二者が劣勢にいたったことで、1950年代の半ばまでには自然消滅したのである。

 

【パラセル小史 (5) …サンフランシスコ平和条約】

 これと並行して法文上では、1951年に日本と各国の間でサンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本がパラセル諸島とスプラトリー諸島を放棄することが定められた。条約の第2条には「日本国は新南諸島および西沙諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と記されている。西沙諸島とはいうまでもなくパラセル諸島のことであり、新南諸島とはスプラトリー諸島の当時の呼び名であった。

 日本軍は第二次大戦後まもなく両諸島から撤退しているので、これはあくまで条約上、文言で事実を確認したにすぎない。しかしこの際にも、日本が放棄したあと、これらの諸島がいずれの国へ返還されるかについては、言及がなされなかった。

 またサンフランシスコ講和会議には、当時台湾に移っていた中華民国も、中国本土を支配していた中華人民共和国のいずれも招かれなかったため、日本は 1952年に中華民国(台湾)と個別に平和条約を結んだ。この際もパラセル諸島・スプラトリー諸島の帰属に関しては言及されず、両諸島の帰属問題はさらに後の歴史に持ち越されることになった。

 

【パラセル小史 (6) …南ベトナム軍の駐留】

 ジュネーブ協定後、ベトナムは17度線を境に南北に分断され、北にはベトナム民主共和国(北ベトナム)、南にはベトナム共和国(南ベトナム)が分立した。

 ベトナムの南北分断は1954年から1975年まで約20年間続くが、この時期にパラセル諸島・スプラトリー諸島の領有を積極的に主張したのは南ベトナムであった。

 

 南ベトナムは1956年4月、パラセル諸島に軍を派遣して西半分を占領し、諸島全体の領有を主張した。これはフランスからパラセル諸島の支配を引き継ぐという名目であった。

 

【パラセル小史 (7) …中国の単独実効支配】

 1956年、南ベトナムが西半分を占領するのとほぼ同時に、中国はパラセル諸島の東半分を占領した。以後、南ベトナムと中国は、パラセル諸島のそれぞれ西半分と東半分を占領した状態で、18年間にわたって対峙を続けた。

 ベトナム戦争末期の1974年1月、中国軍はパラセル諸島の西半分に侵攻して、南ベトナム軍を排除した。中国軍の攻撃は航空機による爆撃までともなったといわれる。これ以後、パラセル諸島の全域は中国によって実効支配されている。

 中国としては、パラセル諸島はスプラトリー諸島へのまさしく途中にあり、パラセル諸島の確保なくして、スプラトリー諸島の支配はなく、したがって南シナ海の支配もないことを意識して、強引な軍事作戦をおこなったのであろう

 

ベトナム語】

 

(クアンダオホアンサ

 

【英語名】the Paracel Islands

 

【中国語名】西沙諸島 

パラセル諸島の正確な位置】

南北は北緯1545分から1715分の間、東西は東経110度から113度の間にある

ベトナムの郵便局の壁にかけられている地図。パラセル諸島(右上黄色)とスプラトリー諸島(右下赤色)が極端に誇張して描かれているうえに、スプラトリー諸島は極端にベトナムに近づけて描かれている。

また、ひとつひとつの島がコンソン島(中央下黄色)やフークォック島(左下シャム湾内赤色)並みに大きく描かれているが、実際にはこれらのほとんどは小さな岩礁や砂州にすぎない

 

◆◇◆◇◆ スプラトリー諸島 ◆◇◆◇◆

ベトナムからは遠く、中国からはさらに遠い】

 スプラトリー諸島は、ベトナム名を「チュオンサ諸島」、中国名を「南沙諸島」という。ベトナム語のチュオンサは漢字語「長沙」のベトナム読みであり、「長い砂浜」といった程度の意味である。

 スプラトリー諸島はホーチミン市から東方およそ800kmに位置している。もっともベトナムに近い島でも、ベトナムの海岸線から500kmも離れており、「ベトナムの沖」というよりも、むしろ「フィリピン領パラワン島の沖」「マレーシア領サバの沖」「ブルネイの沖」などという方が、より納得のゆく表現である。

 まして中国からは、はるかかなたの南海の島々である。なぜここが中国領でなくてはならないのかと、たいていの人が地図を見ながら頭をかしげるであろう。

 スプラトリー諸島は100以上にのぼる小島・岩礁・洲島の総称であり、これらが東西800km、南北600kmという広大な海域に散らばっている。その海域の面積は日本海の半分近くにもなる。

 これら100以上の島々をすべて合わせても、合計面積は10km2にすぎない。各島の海抜はほとんど海面すれすれのレベルで、諸島の中のもっとも高い地点でも海抜わずか4mである。スプラトリー諸島とは、広大な海域にケシ粒のように散らばる極小の島々の総称なのである。

【遠国が全領有を主張する逆説】

 このスプラトリー諸島にたいしては、ベトナム・中国・フィリピン・台湾・マレーシア・ブルネイの6ヶ国が領有を主張して争っている。

 正確にいえば、中国・ベトナム・台湾の3ヶ国はスプラトリー諸島の「すべて」にたいして領有権を主張し、マレーシア・フィリピンは一部の島々についてのみ領有を主張している。ブルネイはもっとも控えめに、自国に近い一部の海域を排他的経済水域としているのみで、陸地の領有は主張していない。

 こうしてみると、マレーシア・フィリピン・ブルネイという実際にスプラトリー諸島に近い国々の主張は、控えめで現実的であるのにたいして、スプラトリー諸島からはるか遠方にある中国・ベトナム・台湾の3ヶ国が、自己中心的に諸島全体の領有を主張しているという逆説的な図式が浮かび上がってくる。

 

【南方海域との浅い関係】

実際、中国1992年に領海法を制定して、スプラトリー諸島を中国領と定めた。またベトナムも、スプラトリー諸島をチュオンサ県(県は日本の郡に相当)と命名して、行政上カインホア省に所属させている。カインホア省はニャチャン市を省都とするベトナム中南部の省である。もちろん中国やベトナムのこうした行政的な措置は国内向けのもので、国際的にそのまま通用するわけではない。

距離的にスプラトリーは、中国本土からはきわめて遠いが、ベトナムからもまたかなり遠い。またベトナムとスプラトリー海域の歴史的なかかわりも薄い。スプラトリー諸島があるのは南シナ海のなかでも南方の海域であるが、そもそもこの海域に臨むベトナム南部(カインホア省以南の地域)がベトナム領になったのは、せいぜいここ300400年のことである。

ベトナムの伝統的な領域は、現在のベトナム領の北半分にすぎない。中立的な立場からいえば、ベトナムのスプラトリー領有の主張もまた、それほど説得的ではないといわざるをえない。

【スプラトリー小史 (1) …第二次大戦以前】

スプラトリー諸島の帰属問題がこれほど複雑になっているのは、同諸島が極小の島々の集まりであって、人間が長期にわたって定住できる条件のない土地であることが根本的な背景になっている。すなわち、これまでどの国の民もそこに定住したことはないのである。

このように、どの国も決定的な領有の根拠を欠いているだけに、各国ともさまざまな論法と資料を動員して領有の正当化に努めている。とくにスプラトリー諸島との歴史的かかわりが薄く、距離も遠い中国は、2世紀初めの後漢時代や15世紀初めの明代に、スプラトリー諸島のある海域に艦隊を派遣したことなどを挙げて、領有の根拠としている。

パラセル諸島以上に居住が困難なスプラトリー諸島にたいしては、各国の実効支配の努力がはじまるのも遅かった。比較的早い時期にその努力をはじめたのはフランスであった。1930年から33年にかけ、フランスは海軍を使ってスプラトリー諸島のいくつかの島を連続して実効支配していた。

 

【スプラトリー小史 (2) …日本軍の占領と撤退】

 

第二次大戦中が近づくと、南シナ海は日本と東南アジアの重要連絡線であるとの観点から、1939年に日本はパラセル諸島とともにスプラトリー諸島を占領して南方進出に備えた

1951にサンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本はパラセル諸島とともにスプラトリー諸島を正式に放棄した。サンフランシスコ講和会議には、台湾の中華民国も、中国本土の中華人民共和国のいずれも招かれず、1952年に日本と中華民国(台湾)は個別に平和条約を結んだが、この際もスプラトリー諸島・パラセル諸島の帰属に関しては言及されなかった。

【スプラトリー小史 (3) …南ベトナムのコミット

  1954のジュネーブ協定後、ベトナムは17度線を境に南北に分断され、北ベトナムと南ベトナムが分立した。ベトナムの南北分断は1954年から 1975年まで約20年間続くが、この時期にパラセル諸島・スプラトリー諸島の領有を積極的に主張したのは南ベトナムであった。

 とりわけスプラトリー諸島は北ベトナムからはまったく離れた海域であって、もっぱら南ベトナムがこの問題にかかわった。1956年、南ベトナムは自国の領有を示す石柱をスプラトリー諸島に建てはじめ、その後も引き続いて各島に石柱を建てている。

 

【スプラトリー小史 (4) …複雑な多国間問題へ】

 

 パラセル諸島に比べて、スプラトリー諸島がさらに複雑な多国間問題であるのは、フィリピンとマレーシア、さらにはブルネイまでが問題に加わっているからである。早くも1949年に、フィリピンはスプラトリー諸島の領有を宣言し、1970年代はじめから80年代にかけて、実効支配する島の数をしだいに拡大していった。

 フィリピンからみれば、少なくともスプラトリー諸島の一部は、自国のパラワン島の沖ともいえる位置にあり、遠方のベトナムや中国がこれをめぐって領有を主張することに不条理を感じたとしても不思議ではない。フィリピンは 16世紀以降400年近くにわたってスペインつづいてアメリカの植民地支配下にあり、スプラトリー諸島の領有を宣言できる条件はなかった。1946年にアメリカから独立したフィリピンは、独立まもない1949年にスプラトリー諸島の領有を主張しはじめたのである。 

 マレーシアもまた1970年代はじめから、スプラトリー諸島の一部の島々の領有を主張しはじめ、1980年代はじめには軍を派遣して、一部の島にたいする実効支配を開始した。また台湾もフィリピンとマレーシアに先立って、1956年にスプラトリー諸島のうちの1つの島を確保している。

 こうして、スプラトリー諸島は中越の二国間問題ではなくなり、のちにブルネイを含めて、南シナ海を囲む6ヶ国がかかわる複雑な多国間問題へと変わっていった。

 

【スプラトリー小史 (5) …中国の強引な割込み

 

 1988年2月、中国はスプラトリー諸島に軍事侵攻をおこない、ベトナム軍を排除しつつ、いくつかの島を占領した。このとき、ベトナム軍の艦船3隻が被害を受け、ベトナム軍にかなりの数の死傷者がでた。軍事的にはベトナムの完敗であった。

 このように中国は1974年に南ベトナム軍を排除してパラセル諸島全域にたいする支配を確立し、さらに1988年に自国と同じく共産党が支配するベトナムの軍を部分的に排除して、スプラトリー諸島に大きな大きな足場を築いたのである

  1992年5月、中国は突如として、スプラトリー諸島の南西のはずれにある浅瀬「ヴァンガード堆」で石油探査をする権利をアメリカのクレストン・エナジー社に認めることを発表した。ヴァンガード堆はベトナムではトゥーチン堆とよばれており、ベトナム南部とマレーシア領サラワクのほぼ中間ややベトナム寄りにあって、ベトナムが自国の大陸棚であると主張している海域であった。

 自国からきわめて遠方の海域の資源探査を第三国の私企業に許可して、その海域にたいする主権を既成事実化しようという、中国のなりふりかまわぬやり方に各国は驚き、とりわけベトナム政府に大きな衝撃を与えた

  1994年以降、中国はさらに強引な既成事実化に乗り出した。1995年2月には、フィリピンが主張する排他的経済水域の中にあるミスチーフ礁に、中国が軍事建造物を設置し、フィリピンと中国の間の緊張が高まった。ミスチーフ礁は、それまでフィリピンが支配していたスプラトリー諸島中の8つの島のひとつであった。

 

【スプラトリー小史 (6) …実効支配泥試合】

 

現在、ブルネイを除く関係5ヶ国は何らかの形で、スプラトリー諸島の一部分を支配している。ベトナムも一部の島に部隊を駐屯させており、他の国も滑走路・軍事基地などの建造物を造って人を送り込んで領有の既成事実化に努めている。1999年段階で、紛争当時諸国はスプラトリー諸島にあわせて4つの滑走路を完成している。

 おもにベトナム・中国・フィリピンの三者間で、偵察機にたいする守備隊による発砲や、船舶の拿捕といった事件がときおり発生しているのがここ数年の傾向である。

パラセル諸島と比べて、スプラトリー諸島の現状が大きく異なっている点は、スプラトリー諸島では中国の優位が確立していないことである。中国はスプラトリー諸島からきわめて遠く、しかも領有の既成事実化に大きく出遅れている。それゆえ中国はこの問題に割り込むために、1988年以降なりふりかまわぬ行動にでざるをえなかったのである。

またスプラトリー諸島が多数の国がかかわる複雑な国際問題であることも、パラセル式の中国の思惑どおりの解決ができない原因のひとつになっている。東南アジア諸国にとっても、中国の関与によって問題の包括的解決の糸口を見出せないでおり、いまのところスプラトリー問題は膠着した局面に入っている

 

 

ベトナム語】

 

(クアンダオチュオンサ

 

 

【英 語】the Spratly Islands

 

【中国語】南沙諸島 

あくまでもイメージであるが、スプラトリー諸島の多くの島々は、こうした伝統的な無人島のイメージを大きく越えるものではない

スプラトリー諸島の正確な位置】

 

南北は北緯6度50分から12度の間、東西は東経113度3分から11720分の間にある

 

【参考資料】

      

 Luu Van Loi, The Sino-Vietnamese Difference on the Hoang Sa and Truong Sa Archipelagoes, Hanoi, 1996.

 William J. Duiker, Vietnam since the Fall of Saigon, Ohio University, 1989.

 Bo Giao duc va Dao tao, Dia li Tu nhien Viet Nam (phan khai quat), Nha xuat ban Giao duc,1999.

 Tong cuc Du lich Trung tam Cong nghe Thong tin Du lich, Non nuoc Viet Nam, Ha Noi, 2000.

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 Paracel Islands, http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/geos/pf.html, CIA.

 Paracel Islands,http://www.encyclopedia.com/articles/09818.html.

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 山内康英、「海洋レジームの現状と日本の対応」、

 

http://www.ni.tama.ac.jp/yama/000102.html

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